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なないろめがね

「出る杭論」を軸にした、様々な思考に対する一考察。

たまには自分のことを書きましょうか。
秋の夜長の読み物にでも、どうぞ。

皆さんは僕にどういう印象を持ってらっしゃるんですかね?
まずこれに対して全く興味がありません(笑)
いや、興味無いって言うよりも、
他人からの印象を気にするより、如何に自分らしく生きていられるかしかないですからね。
周りの評価は自分の意思とは無関係に変動し、
それを追いかけていても追い付く時には恐らく自分を見失ってしまうでしょう。
普遍的なものは、自分の中にしかないと思っています。
それはいつも正しい結果に繋がるわけではありませんが、
それでも僕は自分らしく生きたいと思います。
全部自分で判断し、自分で決断し、自分で責任を取っていれば、
誰を責めるでも恨むでもありません。
他人のせいにしても自分の成長はありませんからね。
もちろん、その結果は良い結果ばかりではありません。
でも、どの地点をもって「良い結果」というかは自分次第ですから。
目先の良い結果に満足していれば、後に必ず泣きを見ますし、
先を見据えていれれば、小さな失敗なんて大きな失敗を防ぐ布石でしかありません。
満足してふんぞり返る余裕は、まだまだ僕にはありません。
もちろんそんなこと死ぬまで望みませんけどね。
で、こんなこと言うと「生意気だ」とか「偉そう」「高飛車だ」とか言われるようですが、
それ、言ってる次元が低すぎるでしょ(笑)
僕の立ち位置、どの位置だと思ってらっしゃるんですかね。
ただの一介のパン職人。
狭い狭い業界の、辺鄙な場所で店をやり、
たかが20坪のお店が、ちょっと知ってる人がいてくれてるくらい。
僕個人にとっては意義のあるチャレンジでしたし、
親バカですが、世界で一番好きな店でありスタッフです。
でも世の中見て下さい。
国内に何千人の社員を抱えてる会社なんか珍しくありません。
常に世界基準の視野で闘ってる職種もあります。
何百年の歴史を背負って伝統を引き継いでる方もおられます。
うちなんて箸にも棒にも引っかかりませんよ。
そんな店の店主の、こんな小さな店の「ブログ」というコンテンツを覗いて、
「生意気だ」「偉そうだ」と仰る皆さん。
そう言ってもらえるような立ち位置になるまで待ってて下さい(笑)
気にしていただいてるのは嬉しいのですが、
今の段階で言われるのは、あまりにくすぐった過ぎるんです。

あのね、「出る杭は打たれる」って言うじゃないですか。
一般的には、あまり目立つなとかいう極めて日本人的な戒めの言葉なんでしょうけど、
僕はね、「出れる」ってスゴいなぁって単純に思うんですよね。
想像してみて下さい。
暗闇の中に一枚の大きな大きな板があるとします。
その大きな大きな板に人間がビッシリ立ってる状況に一本の杭が出ました。
その杭に向かって一斉に声をあげるんです。「あの杭は打たれるぞ!」って。
もちろん他の声もあがるでしょうけど、
今回はとりあえず「出る杭は打たれる」に絡めた話なので、
そういうことにしといてください。
あがった声は、付け加えると一斉にだから言えたんです。
出る杭一本に、誰だかちゃんと顔がわかるくらいの少人数の状態では、
おそらく誰も声をあげれないでしょうからね。
板の上から、ああだこうだと出た杭に座る人に向かって言うわけですよ。
中には言わない人もいますね。言えない人もいます。
しかし残念なことに、出た杭の上から眺めれば、
所詮板の上の人間は大差なく板の上の人間なんですよね。
ああだこうだ言いながら杭一本打てない人と、
何も言わないで打ってない人と、打ってないということでは同じこと。
もちろん杭として出てはみたものの…って杭もあるでしょう。
でも、出てみないと見えない景色はあるわけです。
出てみたから見えた景色があるわけです。
それを見る為に杭として出るんです。
こういうこと言ってると必ず出てくるのが、
「みんなが杭になれるわけではない」などという、
自分の可能性を自分で見切った、挑んでもいないくせに正論ぶった意見です。
なぜそんなことを言うと思いますか?
「杭は高いもの」だという先入観です。
誰が決めたんですか?
「自分なんて・・・」という劣等感です。
誰と比べたんですか?
ことわざに「1メートル以上出た杭は打たれる」って、
具体的に記してるわけではありません。
「出る杭」としか書いてないのですから、出さえすればいいんでしょ?
それから僕も劣等感とコンプレックスの固まりでした。
基本的にこの「劣等感」という、
自分の意思意外に他人という理不尽な比較対象を含んだ言いまわし自体、
うじうじしてて大嫌いなんですけどね。
でも当時の僕はその言葉を使うことによって、
どこかで自分を「可哀想なやつ」と弁護してたような気がします。
憐れみを乞うとまで蔑むことはないですが、近い感情だったんじゃないでしょうか。
少なくとも、前に進むための糧としての言葉ではなく、
出来ない自分の拠り所というか隠れ蓑のような存在だった気がします。
自分がどれだけやったかというよりも、
人と比べてどうかという感情から生まれる人間独特の感情です。
動物にはありませんよ、この感情。
ライオンに片足食われたシマウマだって、
周りと比較してどうだなんて思っちゃいません。
ただ生きるために必死なんです。
そしてこの「劣等感」という言葉を使う僕も含めた多くの人々が、
実はその言葉を使うしか仕方がないというほど頑張ったわけでは、
全く無いのが現実なんですよね。
目標を達成するのは、目標を達成するまでやり続けた人だけなんです。
それを途中で辞めた人間にとって、
勝つまでやれなかった人間にとって、
とても便利で居心地の良い言葉なんですよね。

確かに「大きな杭」は、誰でも打ちたてられるものではありません。
その大きな杭から眺める景色は誰でも簡単には見れるものではありません。
それだけの杭を立てた人だから見える景色です。
それだけの杭を立てようともしない人にも簡単に見える景色なら、
誰もリスクを背負って大きな杭を立てようとはしなくなるでしょうからね。

でもね「今と違う景色」くらいなら、そんなに難しくないんですよ。
横を見ても前を見ても後ろを見ても人の頭だらけの板の上。
ところどころに出てる杭を蔑む人、羨む人、意思すらない人。
その中で、みかん箱一つ置いてその上に立てますか?
何も難しいことはありません。頭一つ抜けさせすれば景色は変わります。
自分のいる板の上がどれだけ広い板なのか、
どれだけの人間がその上にいたのか、
少なくとも埋もれていては見えなかった景色くらいは見えるはず。
そして、出れる杭を打ちつけた人が、
どれだけの勇気を持っていたのかも垣間見えることでしょう。
でももちろん「みかん箱」の上であろうが、
「その他大勢」とは違うことをしてしまったら一斉に視線を集めるでしょう。
みかん箱の上に立ちたいと願い続けてきたささやかな想いやその期間、
そんなことなどお構いなしの視線が一斉に降り注ぐことでしょう。
ちょっとの勇気を振り絞った、そんな人を待ち受けてるのは、
今まで見たこともない景色や、勇気を振り絞った自分の知らない自分、
そしてそんな余韻に浸る暇もないくらい圧倒的多数の偏見の目や心無い言葉、
手のひらを返すような裏切り、そして失望。世の中そんなもんです。
卑屈過ぎますかね?(笑)

でもね、何かを主張するなんて、
それこそ、そんなこと当たり前くらいに思ってないと出来ません。
「出る杭」側の人間は、打たれることなんてどうでもいいんです。
「出た」ことに意味があると思いませんか?
「出れた」ことに価値観があるんやと思います。
だから僕は「出る杭は打たれる」ということわざに
「打たれるのは嫌やなぁ」とか思いません。

思うのは、「出れるって、すごいなぁ・・・」ってことだけです。


東京からの帰りの新幹線の中、
ふと浮かんだ言葉を携帯に打ち込み続け、
さらにパソコンに転送して、
ふんわり柔らかくマイルドに熟成させて、
ようやく「載せても大丈夫かな・・・?」って思うくらいにまでなりました(笑)
長々と読んでいただき、ありがとうございました。
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by monsieur-enfant | 2009-11-07 02:06 | とりとめなく・・