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なないろめがね

「挑む」ことを忘れた人たちへ。

僕らってね、所詮弱い生き物で、
やっぱり一人では生きていけないんですよね。

人と絡み、必要とされ、初めて存在価値って生まれると思うんです。
自分はここに居るんだ・・・って、実感できると思うんです。
「一匹オオカミ」と言われる人だって、
周りに「一匹オオカミ」と評価されるまで貫いて初めて存在として認知されるわけで、
単なる強がりや自己満足程度の一匹オオカミでは、
群れから逸れてることすら誰にも気づかれずに朽ちていくのが関の山です。

そうして人は人と絡み、擦れ、ぶつかり、支え合い、成長していくんやと思います。
なのに自分が苦しくなると、辛くなると、結局大事なのは自分自身なわけで。

楽しいとき、嬉しいとき、いわゆる機嫌が良いときって、
大概誰しもそこそこ良いヤツじゃないですか。
人間の本質なんて、そんなところには決してないわけで、
追い込まれたときに初めてどんな人間なのかっていう人間性が見えると思うんです。
苦しかったり、辛かったり、そんなときに何を思えるのか、どう振る舞えるのかが、
その人の本質だと思うんです。

今の子ら・・・・という表現は好きではありませんが、
往々にして結論に達するまでの過程が短すぎますよね。
苦しい、辛い・・・・・、現状から逃げたい。
なぜそこに直結するんですかね?
頑張る理由、辞める理由、それしかないんですかね?
調子の良い時は「頑張る理由」が見えていて、
調子が悪くなったら探すのは「辞める理由」。
「頑張らなきゃいけない理由」や、「辞めるわけにはいかない理由」など、
過程において新たに生まれてきてるはずのものには、全く目が行かないんですね。
自分が良ければいいんです、他人の想いなんてどうでもいいんです。
一刻も早く、解放されたいんです。
ただそれだけ。
苦しいから辞める、辛いから逃げる。
表面的には結局自分が可愛いだけやと映りますけど果たしてそうなんでしょうか。
自分が可愛いなら、逃げる選択は自分の為にはならないでしょう。
単なる現実逃避。そんな状況にいる自分に我慢できないんです。
迷惑かけてる自分、怒られてる自分、上手く行かない自分、
そんな現実に耐えれないんですよ。
今まで何も頑張ってきてない分際で、落ち込むことだけは一著前。
今まで落ち込んだ経験が少ないのは、単にチャレンジしてる数が少ないだけやのに。
僕には必然にしか映りません。やってないから出来ない、簡単な道理です。
今の世の中、頑張らなくてもある程度のことなら与えてもらえます。
親が周りや世間体を勝手に気にしてくれて、
チャレンジもしない子にただただ与えることによって、
苦しまなくてもそれなりに得れる世の中を生きて来てることによって、
鼻くそほどの頑張りで何か得られると思ってる甘ちゃんが増殖してきてるわけですよ。
そこんとこ、気づいてらっしゃるんですかね?

落ち込むにもね、資格がいるんですよ。
必死にやって、本気で頑張って、それでも及ばない人間が、
悩み、もがき、苦しみ、落ち込む権利を得るんです。
一生懸命やった結果なら、絶望もするでしょう。
でもそれも、やったからこそ得れる感情なわけで。
わかりますか?それが「落ち込む」ってことなんです。
下を向くのも自分や現実から目を逸らしてるだけ。
単なる同情を乞うポーズに過ぎません。
今が過ぎ去るのを期待して、安い期待を違う未来に描いてる。
小石すら自分で払いのけて進むこともしないくせに、
小石を避けて進む術は、どこで教わったのか、ちゃんと知ってるんですね。
だけどね、現実が入れ替わっても、
元凶となる自分が一緒なんやから、何も変わるわけないのに。
馬鹿はそこには気づかないんです、残念ながら。

目先のことから逃げるのは簡単。
でもね、逃げてるのは果たして目先のことだけなんやろか。
何かにぶつかっては逃げて、
ぶつからないで得れるものだけ収集する人生を歩み、
気がつけば「挑む」という気概すら持ち合わせない大人の出来上がり。
それって、人生そのものからも目を逸らしてるんじゃないですか?
少なくとも、自分の人生を大切にしてる人の選択ではないと思います。
もっと大切にしなきゃ・・・・。
自分の人生、なんで周りの方が必死になってるんよ。
なんで自分自身でもっと大切にしてやらんのよ。
なんで真剣に自分自身と向き合わんのよ。
僕らは所詮応援しかできません。
歩みを進めるのは自分の自身の足であり、自分自身の意思なんです。
そんな子らが親になり、はたしてどんな言葉を発するのでしょう。
どんな背中を見せてあげ、どんな生き様を伝えれるのでしょう。

人は人により成長させてもらい、知らない自分も、足りない自分も、
人と触れ合うことで見つけ、補って補い合って生きていくんです。
前にも書きましたが、「出会い」とは出会うことを指すのではありません。
布と布を重ねても、それを繋げることはできません。
糸と針を使って、「紡ぐ」行為があって、初めて二枚の布は繋がるんです。
人も同じこと。会うだけでは何も繋がりません。
出会いを自分で紡いでいかなければ、すぐに解けてしまいます。
紡いで、繋げて、初めて「出逢い」という大切な宝物が生まれるんです。
最初は上手く紡げないこともあるでしょう。
針と糸が苦手な人がいるように、想いを上手に伝えれらない人もいるでしょう。
だけど、辞めちゃだめだ。
投げだしちゃだめですよ。
ヘタクソでもなんでも、一生懸命紡いだ糸は、そう簡単には解けません。
そしてそのうち、少しずつ少しずつ、上手になっていくもんです。
気付いたら、知らず知らずのうちに紡いだ糸が、
知らず知らずの出逢いを繋げていってくれてることでしょう。

出会いは単なるきっかけ。
紡いでこそ、繋がってこそ財産。
今年になって和歌山から出て来た女の子が一人。
早速2度も「辞めさせてください」宣言。
ま、なんとか踏みとどまり、不器用ながら、
必死に毎日毎日紡ぐ作業に明け暮れています。
決して綺麗ではない一本一本の糸の軌跡が、
どうか自分を支える強さへと変わる日が来ますように・・・。

明日からは東京から出て来る女の子が一人、新しく加わります。
シュクレもまた今年一年、幾つもの出会いと別れがあることでしょう。
でもそれによって織りなされ彩られるのが人間模様。
うちのパンやお菓子が、お客さんとの間を紡ぐ針や糸のようになってくれたら・・・・と、
そんな想いも込めて、今日もパンを焼くのです。



P.S ちょっとずつ、年明けから書き綴っていた記事です。
こんな状況下で、一気に書き上げるエネルギーはありませんのでご心配なく。
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by monsieur-enfant | 2010-01-28 17:48 | とりとめなく・・