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なないろめがね

改めまして、NPO法人essenceの取扱説明書的なやつ、書いてみました。

5月20日に発表してから一ヶ月ちょっとが経った7月1日(日)、
今の身の丈にあった形での、会員さんの顔合わせも兼ねた催しを、
大東市にある川村義肢さんの会場提供の御好意をいただき、
無事に開催することができました。

手作り感溢れる・・・というと逃げになりますが、
この団体というのはサポートやコーディネートに回る「裏方」の役割がメイン。
表に立つこと自体、自分の中では憚れるなか、
あまり気張らず、今やれる範囲でのセレモニーになれば、と思っていました。

そんな中、立派な会場を提供してくださった川村義肢さん、
その会場をいっぱいにしてくださった、参加者の皆さん、
ドキュメンタリー映画「1/4の奇跡」の上映、
華を添えてくれた吹田ろうあ太鼓「和龍耳」の生演奏、
そして、多忙な中、無理を聞いてくださった、
賛助店舗の皆さんによる「食」の持て成し等々によって、
いっぱしの「会」として成立させていただけたこと、本当に感謝しております。
その辺りの詳細に関しましては、essenceのブログに委ねるとしまして・・・、

これだけの人数が集まる事が今回が初めての試みだったこともありますが、
障がいを持たれた方のほうが明るく積極的に時間を過ごしていて、
むしろ健常者と呼ばれる方々のほうが、「どう接して良いかわからない・・・」と、
戸惑われていたように思います。でも、それで良いと思っています。
戸惑いや不安は、触れ合って行かなければ拭いされないもの。
僕らも同じですが、「こういう団体を立ちあげた」という事実だけで、
信頼してもらえるかというとそんな簡単なことではありません。
「分け隔てなくお店に来て楽しんでほしい」という「意思表示をした」というだけで、
「あ、そうなの?」って足を運んでいただけるかというと、そんな訳ありません。
再認識していただかなければいけないのは、
一朝一夕で成し得れることなんて何もない活動だということです。
旗を掲げただけで何かを成し得れたりするようなものは、
所詮、一方的な「やった感」でしかありません。
どっちがどっちということではなく、お互いが何度も接して、何度もノックして、
分かりあうことから始めなければいけません。
仰々しく聞こえるかもしれませんが、信頼関係って、そうやって作るもんでしょ?
「対、人」だろうが「対、NPO」だろうが、そこは同じです。
「面倒くさい」って思われる方もおられると思います。
でも、そうやって何もせずに来たから「今」があるわけです。
何度も言ってますが、僕らは「きっかけ」に過ぎません。
そう何度も言ってるにも関わらず、「何をしたら良いか・・・」って方、
いまだに後を絶ちません。
やるならやる、やらないならやらない、それしかないはずなのに、
「きっかけ」を目の前に突きつけられていながら「何をしたら良いか・・・」って、
じゃあ、「何と何と何をしてくださいね」と、
そこまでお膳立てしなきゃ行動すら起こせないんですか?って思うんです。
「でも具体的に何か・・・」って、まだ仰る方に逆に質問させてください。
「何と何をしさえすれば問題は好転するのですか?」
それが分からないから、と言うより、そもそも「何をしておけば良い」なんてもの、
存在しないからこそ行動するんじゃないですか?
「効果的な一手」なるものがあるのなら、
障がい者が疎外感を感じる世の中なんて、とっくの昔に無くなってますよ。

僕は、社会における根本的且つ分かりやすい問題、
「障がい者との接点の無さ」というシンプルな問題を、
「食」という比較的身近なコミュニケーションツールを使ってコミュニティを生み、
「一緒にいること」の違和感を少しずつ無くしていけたらなぁと願っています。
それがただ食欲を満たすだけの「食」ではなく、
僕らプロが携わり、喜びや楽しみ、感動を伴うような「食」に触れてもらうことにより、
少しの彩りを分け隔てない方々の人生に添えれたら、尚嬉しいなぁと思っています。
何も大袈裟なことを打ちだしてるわけではありません。
自分の力量を見誤って、難しいことを試みようとしてるわけでもありません。
応援して下さってる方々への責任感は当然ながら持ち合わせているつもりですが、
そこに義務感もなければ、使命感もありません。
そもそも「何かをしてあげる」とか「してあげなきゃ」みたいな感情は一切ありません。
僕らが作るのは「機会」だけ。「きっかけ」だけ。
参加するもしないも自由です。店も個人も同じです。強要は一切ありません。
そこに参加して一緒に楽しみたい。直接触れ合うことで知らなかったことを知りたい。
そしてそれはとても素敵なことなので、
一人じゃなくて、みんなでその時間を分かち合いたい。ただそれだけです。

もう一つ模索していた「飲食業の社会的立ち位置の居心地の悪さ」。
通常営業における営業利益のみの毎日で、
社会業績は何も果たせてないにも関わらず、
マスコミや昨今ではネットによって「作られた」立ち位置。
関わりはほとんど「業界内」であって、
その業界内でしか通用しない体たらくも多々あって
極めて「社会に属してる」という意識の少ない業種だという印象を、
結構早い段階から持っていました。
それと同時に、労働時間も長く、自由がきかない業種ということに、
「そもそも何か社会に貢献できることなんて求められてないんじゃないか」
とも思うようにもなってきてました。
そんな気持ちのモヤモヤを抱えながら伺った、
この度、会場提供して頂いた川村義肢さん。
そこの川村社長に言っていただいた一言で、
ある種荒んでいた自分の手の中の「仕事」が、ポッと温かくなった気がしました。
「車椅子や義足、介護ベッドなど、日常をサポートする為の技術は、
軽くなり、コンパクトになり、強くなり、本当に進歩しています。
でもね、私たちにはそこまでしかできないんですよ」
最初はピンと来ませんでしたが、その後に次の言葉が続きました。
「日常をサポートするだけが人間らしさを生むわけじゃないんです。
その日常の中に“豊かさ”があって、初めて人間らしさが生まれるんです。
その部分を飲食業の方々に担ってもらえるのなら、こんな心強いことはない!」

「あ・・・・、あった・・・!」って思いました。
「社会」の中で必要とされてる役割が、飲食業にもあったんです。
それは女川町を訪れた際にも感じたことでした。
「日常は戻りつつある」と聞いて向かった女川町。
でも、そこにはとても「日常」を取り戻した空気は無かったです。
物や環境のみを与えられ、定義づけられた日常に人がはめ込まれてるだけの印象。
「会話が生まれない。ワッとなるような楽しい食事がしたい。」というオファーでした。
もちろん、その一時で全てを忘れるわけではありません。
でも、「生きてて良かったぁ・・・」と、涙を流してくれたお婆ちゃんがおられました。
「ハイカラな食べ物だ・・・」と皆さん喜んでくださいました。
「僕みたいな微力な人間が・・・」、
そう思って、なかなか被災地に足が向きませんでしたが微力上等です!
「うちみたいな小さな店が、一体何人の方の・・・」、
一人のお婆さんが泣いてくれただけじゃ物足りませんか?

一つの業種が全てを担っているわけではなく、また担わなきゃいけないわけもなく、
それぞれに、それぞれの役割を分担しあって「社会」は成り立ってるんです。
僕らが介護や車椅子の開発などを専門的に担うことはできません。
でもそれは、川村義肢さんのような業種がちゃんと責任持って担ってくれてるんです。
じゃあ、その向こうの日常における豊かさを届ける役割を、どの業種が担うんですか?
生活に密着した「食」を生業とする、僕ら飲食業がまず手を挙げないでどうしますか?
この分野まで、「忙しいから」と他の業種にやってもらうんですか?

僕は、単純に「あった」ことが嬉しかった。
「社会」に使ってもらえる役割があったことが嬉しかった。
初めて「社会に属してる」という実感を得たし、
「飲食業、まんざらでもないな」と思わせてもらえた瞬間でした。

「健常者と呼ばれる人、障がい者と呼ばれる人、
世の中は多数決の多い方がスタンダードになってるだけ。
右利きが多い世の中だから、右利き用で世の中は溢れている。
健常者が多いから障がい者には配慮がないだけで、
障がい者ばかりの世の中なら世の中のスタンダードは障がい者になる。
ただそれだけ。少数派なだけで別に弱者でもなければ可哀そうでもない。」
自身の身に障がいを抱え、車椅子の生活を余儀なくされながら、
若くして起業した青年に会った時、きっぱりと彼は言い放った。
前にも言いましたが、僕らは機能に甘んじてる。
豊富にある機会や、当たり前に用意されてる明日に、平気で甘んじている。
学ぶべきことは多い。気づかされることは多い。少なくとも僕らよりは遥かに強い。
美味しいものを一緒に食べましょう。そこでいろんなことを分かち合いたい。
その景色を、あっちでもこっちでも作っていきましょう。
もっとそれが当たり前の景色になれるよう働きかけましょう。
優劣なんてありません。そこに隔たりなんて作る必要もありません。
さぁ、一緒のテーブルに着きましょう。一緒にワインを飲みましょう。
僕ら飲食店は、その機会の受け皿として使ってもらえるのを楽しみにしています。

いつの日か、まずはその意識がスタンダードになりますように。
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by monsieur-enfant | 2012-07-05 00:10 | とりとめなく・・