北新地へ移転してから半年余りが過ぎ、ようやく周りが見えるようになってきました。もう身も心も壊れてしまうんじゃないかと思ったオープンからの3ヶ月を経て、なんとか年末まで乗り切り、ふと振り返ると驚くほどの問題点が山積みに。
あぐらをかいてたつもりなど毛頭ありませんし、自分の中では明確に分けてたはずだった「岸部と北新地」。でも、心のどこかで「岸部でやってきたこと」を引きずってたんでしょうね。情けないことに、反省の多い半年間となってしまいました。
ただ、それによって大きな気づきも生まれました。より良くなっていくためにしなきゃいけないことも明確になり、課題を克服することによって変化していける確信も見えました。今年の半年間は、これからの北新地を大きく左右するほどの大事な半年間、それくらいの気持ちで僕らは今年をスタートさせています。
その一環として見直すことになったHP。北新地ではどうすべきか検証してきた「パンの予約」も、サイトからの予約という形でようやく開始することが出来ました。始めはオペレーション含め、ご迷惑をおかけすることもあるかもしれませんが、問題点は迅速に改良していきますので、どうか温かな目で見守っていただけると嬉しいです。
パンの写真も北新地で撮り直し、文章の書き換えなどの見直しもしてる最中、「あれ・・・?」と見つけたのが、このブログです。岸部閉店最終日の、画像だけが貼り付けられてあったんです。公開されてないので僕にしか見えてなかったんですが、ログインしっぱなしだったおかげで気づくことができました。
しばらく見てなかったブログですが、久々に読み返すと懐かしいものですね・・・。全然書いてないと思ってましたが、閉店直前には少し書いてたりしてました。モンテベロの最後のサヨナライベントの記事で終わってますが、さすがにこれではキリが悪いなと。
FBやインスタのように手軽な発信手段がある昨今、時間も労力もかかるブログに僕が戻ることはないと思いますが、せっかく貼り付けられた画像があることですし、ゆっくり振り返りながら記してみたいと思います。ブログを楽しみにしてくださってた世代の皆さん、一緒にこの場を懐かしみながら、振り返ってみましょう。
では、始めましょうか。季節は、春です。

2016年、3月31日。木曜日だったんですね。「最終日まであと何日」ばかりで、曜日など覚えてなかったです。この日は、僕の人生の中でも忘れられない大きな区切りとなった日。2004年4月に開店した、シュクレクールの岸部での営業を終える日でした。

さすがに最終日ともなると少しは実感はありましたが、寂しさを感じる余裕などはなく、朝からいつものように、開店に向けて必死でパンを焼くのみ。感傷になど浸ってるより、この場で焼く最後のパンをきっちり届けたい、そんな想いの方が強かった気がします。小さな店ですが、みんなで手分けしながら開店に向かって準備します。
その間に並んで待っていただいてた皆さん。
最後の開店を待ちわびてくれてるその胸に、
そう、いつも繰り返してきたこと。
いつもいつも繰り返してきたことです。

「オープンします!」の掛け声と共に、シャッターを開け、お客さんを招き入れます。長い時間待っていただいたお客さんも、嫌な顔一つせず、この瞬間を待ってくれてました。そして口々に「ありがとう!」と言ってくれたこと、本当に一生忘れません。今も書きながら思い出しても泣けてきます・・・・。
モンテベロにも、お客さんがたくさん来てくれてます。シュクレに来たり、モンテベロに行ったり、かなり長い時間を岸部で過ごしてくださった方も多かったようです。

北新地では、まだあまり見れてない光景。
やはり生活圏ならではの良さの一つですね。
お母さんに手を引かれたお子さんの姿、
自転車の前後に乗せられながら来るお子さんの姿、
一目散にショーケースに駆け寄って来るお子さんの姿・・・。
受け入れられるか不安だった自分のパンを、
小さいお子さんが食べてくれてるのは、
大きな自信になりましたし、支えでもありました。

モンテベロの店内も、もはや懐かしい・・・。人がいてくれて、店なんですよね。箱だけじゃ意味ないんです。良い商品作ってたって、届かなければそこまでのもの。全ては想いを届けるツールに過ぎないのです。モンテベロはお菓子を、シュクレはパンを、その手段を通じて何を届けれるのか・・・。何を受け取っていただけたかわかりませんが、何か受け取ってくださってたら嬉しいな・・・と願う、最終日の景色となりました。

正直、そこそこ岸辺駅で降りる人の数には貢献したと思うんですよね。だって、住んでる人か通学にしか降りない駅でしたから。なんかそういう店や会社に、市からとか何かあったら良いのになって(笑)。ガキの頃から吹田に住んでた吹田市民が、地元の吹田に店を出すって言っても何のメリットもないですし、何年続けたからと言って何もない。じゃあ、他所から来た人が店を出すのと変わらないし、2年も持たずに閉店してしまった店とも変わらない。「あぁ、地元でやって良かったなぁ」って体感できることが増えると、地元に戻ってやりたいって人も増えると思うんですけどねぇ・・・・。飲食に限らず、開業場所の選択肢なんて山ほどあるんです。オープン前の不安に駆られる時期に、きっかけがあるのとないのとでは、えらい違いなんですよね。些細なことだと思うんですけどね。市民税もずーーーーーっと払ってるわけですしね。育った街への愛着がない人なんていないでしょうしね。何回か直談判したんですけどね(あ、後進のために、です)。茨木は確か茨木市民だとなんちゃらかんちゃらあった気がするんすよね。高槻はジャズフェスやったり茨木もなんか考えてたり、吹田は吹田祭りくらいしかねえしな・・・って、愚痴になって来たのでやめときます(笑)

愚痴ってる間にパンがなくなるとマズいので、
この日は頑張って追っかけます。
最終日と知って足を運んでくださった方々に、
ちゃんと僕らのパンと一緒に帰宅してもらえますように・・・。

姿を見ただけで、お互い一気に涙腺が崩壊しました(笑)
フランスから先に帰国し開店したのは僕でした。
パリの店の屋根裏部屋で、
ソファーベッドに2人で寝転び熱く語った夜(仕事の話じゃなかった気が・・)、
後から帰国する米田シェフに、
「言ってたことと、やってること違うやん!」って思われたくなかった。
そんなやつ普通にいっぱいいますが、その「いっぱい」側には立ちたくなかった。
語らずとも全ての時間と想いを一瞬で共有できる友であり、
きっとある部分では身内やそれ以上の存在でもある米田シェフに、
「一先ず、おつかれさま」と労ってもらえたことは、
踏み外すことなく、ちゃんとやってこれたのかな・・・と素直に思えました。

よく、「ようこんなとこで、こんな店やってんなぁ・・・」と、
関心されたり呆れられたり、
東京に支店を出したパリのパン屋のシェフが訪ねて来て、
「マジで!?日本でこんな店やってんの!?」って驚かれたり、
特異な店という印象は欲しいままにして来たシュクレクールですが、
そんな僕が「こんな店、日本でやっていけんの!?」と驚愕したのが、
六甲道が本店だった頃、
初めて「メツゲライ クスダ」に伺った時の印象でした。

共通項は多いんです。でも、僕なんて腐ってもパン屋です。まだ馴染みがないわけじゃない。それが、シャルキュトリーを、何か普通の店をやるみたく、普通の場所に普通にオープンされてて、覗いてみたらド本気のド直球ぶりに圧倒された鮮烈な記憶があります。僕より何十倍も大変やったと思います。それでも、「大変やったよね、ご苦労様でした」と、差し入れを持って来てくださる楠田ご夫妻に、顔を見合わせて「うん、うん、うん・・・」って頷くことしか出来ませんでした。あれこれ言わなくたって、ちゃんと汲み取ってくださる方との出逢いは、こういう店を貫き通したからこそ神様がくださった、宝物なんだと思います。
ずっと皆さんを迎えてくれた、
誰が呼び始めたのか「シュクレくん」。
実は真っ白だった傘立てを、「塗ってもらえんちゃう?」と軽く頼んだのが、
「板金塗装は樋谷自動車!」でお馴染みの樋谷さん。
いつもどんな時も、ずっと応援してくださってるお二人も、
節目のこの日に駆けつけてくれました。
シュクレくんを北新地に連れていかないことは、
「岸部を必ず再開しますんで」とのことで納得していただけました(笑)

以前、働いてくれてた子たちも、
わざわざ名残を惜しみに駆けつけてくれました。
1人1人の顔を見ると、それぞれの時期をちゃんと思い出せます。
良いスタッフにも巡り会えた、良い店だったなぁ・・・と思います。

変なストーカーが広島からわざわざ来たアピールをしてきたので、
セコムに来てもらう準備だけはしておきました。

異業種ですので、直属で僕の下で働いたわけではありませんが、
橋本(現・アシッドラシーヌ)と過ごした時間は、
言葉では言い尽くせないほどの濃度と熱さだったと思います。
彼が築いた礎を、必死に繋いで繋いで、今のモンテベロがあります。
・・・置いてかれた負の遺産もなかなかのもんでしたけど(笑)
パンが無くなっても閉店時間までは開けてようと思っていましたし、
パンが無くなっててもいいから、
最後に駆けつけたいと思ってくれる人たちがいてくださいましたし。
投げてばかりいたって、受け取る人がいなければ成立しないんです。
確かに皆んなが皆んな、正しく受け取ってくれるわけではないけれど、
だからこそ来る日も来る日も同じ球を投げ続けて来たわけです。
「店と客」の単純な図式では見れなかった景色が、
それ以上の関係性が築けてからこそ見れた景色が、
ここから広がっていくわけです。

閉店時間はとっくに超えてました。
それでもお客さんは後を絶ちません。
僕らにも物語があるように、
ここに通ってくださった皆さんにも、
それぞれシュクレクールを絡めた物語があるんですね。
つくづく、この店はすごいな・・・って思いました。
そして、「え?どんだけ作ってんの?」ってくらい、
焼いても焼いても、まだ焼くパンが残ってるんです。
神様がイタズラして、無くなってるのに勝手に追加してるかのようでした。
本当は夕方には焼き切って、
表に出て皆さんとお話しする予定だったんです。
が、幸せなことに、パンを1日焼き続けて終えることができました。
こんなにこんなにパンを焼かせてもらえるようになったこと、
それが12年の軌跡の全てだったような気がします。

そして本来19時に閉店のところ、この日の閉店は21時となりました。お客さんが来てくださらなければ、今日の営業は19時で終わっています。それを思うと、なんだか不思議な時間でした。延長させていただいたこの2時間は、紛れもなく、お客さんによってシュクレクールでいさせてもらえた時間なんです。終わってたはずの時間を、アンコールでまた舞台に立たせてもらったような、とんでもなく有難い、本当に本当にご褒美のような時間でした。焼き上げるたびに自然と涙が溢れて来るこの2時間は、柄にもなく「感謝の気持ち」で満たされた時間でした。
始まりには終わりはつきもので、当然決めた時には覚悟してた瞬間ではありましたが、岸部での最後の挨拶で感極まる、
モンテべロ吉田の言葉を聞きながら、

自分の手で大きな木の扉を閉めるまでの時間が、
とても長く、とても重く感じました。
ささやかな、たかが数年の小さな歴史でしたが、
ここに刻まれた、この店に叩きつけられた想いの数々は、
閉じた扉の中に仕舞われることなく、
この店に携わった全ての人の中で生き続けてくれることでしょう。

そして何より・・・・、閉店時間を迎え、店を閉めるために外に出てきて初めて気づきましたが、

この時間まで残ってくださってたお客さんは店内だけでなく、
外にもたくさんの方々が残ってくださってたんですね・・・。

この日は、岸部閉店から北新地開店までを追いかけてくださった、「LIFE」という番組のカメラや照明があったわけですが、僕が店内から外に出た時に、ちょうどその照明に照らされて、暗闇の中にたくさんのお客さんの待つ姿が浮かび上がって見えたんです。

いやもうね・・・・、
その光景と言ったら言葉にならなかったですよ・・・。
本当に、本当に大変でしたけど、
「大変」なんて薄っぺらいくらい魂が擦り減るような日々でしたけど・・・、
この店は、最後の最後に、
僕にこんな素敵な贈り物を用意してくれてたんですね・・・。
そして本当の最後は、どう足掻いたって僕1人では出来なかった店です。
その店に見守られながら、ここで共に時間を過ごしてくれたスタッフたちに、

一人一人、握手をしたりハグしたり・・・、
この時ばかりは日頃の恨み辛みなどは一旦忘れてですね(笑)、
心からの感謝を伝えさせてもらいました。

全てのスタッフを店内に送り入れ、
これにて、12年続けさせていただいた営業に、
一旦、幕を降ろさせていただきます。

うちのシャッター、開け閉めする時、すごい軋むんですよね・・・。
その音が、なんだか哀しくて哀しくて。
「この場所から放った想いが、地元にしか届かないではダメだ!
失速させることなくそのまま全国に届くくらいじゃないと!!」
岸部という街から本気でそんなこと思うような、
そんな無茶な主人と出会ったおかげで、
この店は声が張り裂けんばかりに叫んでくれたんだと思います。
誰も聞いてくれない頃から、今日までずっと。
そろそろ、ちょっと疲れて来た頃だと思うんです。
いろいろ、キャパオーバーになっちゃったもんね。
ありがとう。
ご苦労さま。
ちょっと休もうね。

誰も知らない小僧が、急にこんな地で始めた「BOULANGERIE」。「明太フランスないの?」「クリームパンは?」「こんなん硬くて食えるかいな。柔らかいパンないの?」そんな人がほぼほぼを占めてた開店当初。今では、うちにあるパンを当然のように求めて入って来てくれます。誰も、驚かなくなりました。誰も、戸惑わなくなりました。それだけで、十分嬉しかったんです。十分、やって来て良かったって思わせてもらいました。
それなのに、たくさんの人が店が閉まる最後まで残ってくれました。僕は誰に頼まれたわけでもなく、勝手にこんな店をやったわけなんですが、最後の最後、こんな小さな店の店主に、挨拶の機会を用意してくださった皆さんを前にした時、「報われた〜〜〜〜〜!!!!」って言葉が、涙と共に心の底から湧き上がって来たんです。
開店当初、本当にヤバかったです。自分のパンを必要としてくれるマーケットが存在しないんです。でもそれは、当然想定内ではありました。想像以上に受け入れられなかっただけです(笑)「10年かけて育てよう。店も、スタッフも、お客さんも。今見れない景色を、10年後には見れるように。今からお客さんと一緒に、そんな店になっていこう。そしてその景色を、10年歩んでくれた皆んなで眺めよう。」そう思い直して歩き始めた道のりでした。っていうか、そう思わないと歩き出せないくらい現実に挫けました。
ただ、こんなに素敵な景色を見せてもらえるなんて、思いもしませんでした。小童が思い描いた空想を遥かに凌ぐような素敵な景色を、僕はお客さんに用意してもらえたんです。こんな幸せな職人、いますか?こんな幸せな店、ありますか?この景色を見させてもらった瞬間に思ったんです。「僕がこの地に捧げて来た時間と労力、その全てが報われた・・・」って。
大したことないですよ。何をしたわけでもないですよ。ただ、本当に全身全霊かけてやって来た自負はあります。たくさんの人に迷惑もかけました。たっくさん迷惑をかけました。下手くそ経営者ゆえ、失敗もしまくりました。店の存続すら危ぶまれるような事態もありました。でも、その全てに意味があったと思いますし、その全てが僕にとっての学びでした。当たり前ですが、パンを作るだけじゃダメなんです。店を回さないといけない。人に手伝ってもらわないといけない。売り上げあげなきゃいけないし、存続のために利益も残さなきゃいけない(←これ超下手クソなやつ・・)。頭の悪い僕なんかじゃ本気で無理だと思いました。そこで救われた一言がありました。「経営学は、統計である。経営は、実践である。」経営が実践であるならば、そこには逃げずに取り組んでる。じゃあ、10年かけてパンを学んで店を開いたように、店を開いて10年かけて、実践の中から学ばせてもらおう。
シュクレクールは、友であり、先生でもありました。僕はこの店でたくさんのことに気づき、たくさんのことを学びました。1人だった僕ですが、今ではたくさんの人たちに囲まれています。

そんな学び舎を、無くすことなんて僕にはできません。
ただ、今までと同じやり方で営業することは難しい。
その手段がちゃんと決まらない限り、
易々と「再開します」とも言えなかったんです。
予想通り、好き勝手言われましたね。
「岸部捨てるんや」とか、
「やっぱり移転した」とか、
一言も想いを交わしたことのない人たちの何の責任も伴わない言葉には、
「お前らに何がわかるんじゃ、こら!
一番この地にこの店に思い入れがあるのは、
誰より俺に決まっとるやろが!!
再開した暁には、詫びの一つでも入れんのやろな!?」
な〜〜〜〜んてことは、学び舎で学んだおかげで言わないのでした。

今は、北新地の巨大オーブンに体力を削り取られてる日々ですが、たまに帰るとやはりホッとします。役割だけでなく想いも預けれる仲間がいてくれるおかげで、岸部も四ツ橋も再開させることが出来ました。
お店はね、「勝手に作った」じゃないんですよ。そこには通ってくれたお客さんの想いもあります。岸部も、四ツ橋も、歳月の長さじゃないんです。開けた責任は、僕らがちゃんと担わないと。僕らだけの店でも、僕らだけの場所でもないんですよね。そんなことも、お客さんから教えていただいたことです。なのに、勝手に閉めれるわけないじゃないですか。あんな地下の店ですけど、それなりに本気で考えたんですから(笑)
ありがたいことに、岸部も四ツ橋も、それぞれの場所のお客さんが帰ってきてくれました。叶わなかったですが、無理矢理でも行きたかった岸部の再開の日、オープンと同時にかけてもらえた言葉は、「おかえりさない!!」だったそうです。
つくづく、幸せな店やなぁ・・・って、心からそう思います。
ありがとう。そして、ありがとうございます。月並みですが、これからもよろしくお願いします。
久々のブログ更新でした。つかれた。